ヒマラヤの植物調査にかかわったのは1960年からだった。それ以前には、日本山岳会のマナスル登山に平行して行われた学術調査による中尾佐助氏の採集品を、わが国の植物研究者が分担して研究していた。日本の植物の多くはアジア大陸に由来しており、とくに温帯性の種類は、中国大陸との関連を知らなければ理解が深まらないということは、誰もが感じていた。けれども当時の政治情勢では、中国で野外調査を行うことは不可能だった。むしろそのむこうのヒマラヤの方が、入りやすかったのだ。東大の原寛先生がまずこれに挑戦し、インド東部のシッキムを目指した。どの国も「観光」は歓迎するが、「調査」となると身構える。「よその国の人間に調査をしてもらうほど、わが国は遅れてはいない」というプライドにかかわるからである。だから、インドの研究機関との「共同調査」というかたちをとった。これは現在でも、たいていの海外調査の形態である。けれども、はじめての海外調査の行く先としては、シッキムはむつかしい地域だった。
シッキム地方のダージリンは、紅茶の産地として誰でも知っているし、観光地としても有名である。しかしそのすぐ北のシッキム州(当時はインドの保護領)はチベットとの緩衝地帯で、現在でも北部は開放されていない。そこへ入ろうというのだから、複雑な交渉の末、やっと南部のほんのわずかの地域を歩けたにすぎなかった。それも採集に熱中して少し足を伸ばしたら、スパイの容疑をかけられる騒ぎとなった。これにこりて、次からは面倒の少ないネパールが、主な対象地域となった。
物資の輸送にも困難があった。当時は日本から全ての資材を持って行かねばならず、航空輸送は資金的に手がとどかないから船荷となり、カルカッタでインド税関の面倒きわまる手続きに振り回された。中でも一番困ったのは実に新聞紙である。植物標本を作るとき新聞紙にはさむことは、どなたもご存知だろう。荷物の中で一番多いのは新聞紙で、その量は積み上げて10mに達した。三階建てのビルの高さである。ところがインドの税関では、食料などの消耗品や調査機材のような非消耗品については、課税対象としての知識はあるが、多量のそれも価格0の古新聞をなぜ持ち込むのか、理解してもらえないのである。荷物検査をすると漢字がいっぱい印刷された紙ばかりである。その頃は中国軍のチベット進出、ダライ・ラマのインド亡命などの事件で、インドと共産中国は緊張関係にあったから、思想関係の宣伝材料と誤解されかねなかったのである。
今日では、物資の大部分はネパールで調達でき、日本からはごくわずかの機材を直接カトマンズへ空輸したうえ、ほんの数日の手続きで調査に出られるようになった。そのうえ、以前は垂涎の的だった中国の四川・雲南省はおろか、禁断の地だったチベットまで、植物観察のグループツアーが出かける時代となり、上に書いたような事件は昔話どころか、あったことさえ頭に浮かべてもらえなくなった。平和で人の行き来が自由にできる世の中が、続いてほしいものだ。
[国立科学博物館ニュース(394):3(2002)]
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